月に帰らない、かぐや姫

Episode10  出会い

目を開ける前に、むっと濃厚な土の匂いがかぐやの鼻を刺激しました。かぐやは突然のことに驚いて体勢を崩し、後ろにひっくり返ってしまいました。

手をついた地面は、しっとりと濡れた土と草の感触です。

「あっ!」

目を開けて辺りを見回しました。

本で見た通りの景色が目の前に広がっていました。青い空、緑色の草、頬を撫でていく風。

「わあああ! 私、本当に来たんだわ! ここは地球だわ!」

立ち上がって叫びました。かぐやの叫んだ声は、風に乗ってびっくりするぐらい遠くまで渡っていきます。飛び跳ねずにはいられないほどうれしくなって、実際、かぐやはその通りにしました。

「地球だ! 地球だ! 地球だわ!」

近くの森から鳥のさえずりがしました。それから、「うわっ!」という人の声、何かが跳ねるような音。

かぐやは飛び回るのをやめて、はたとそちらに顔を向けました。眩しい太陽の下では、薄暗い森の中はよく見えません。

恐る恐る森の中へ入っていきました。下草が一気に減り、枯れ枝が目立つようになります。木漏れ日が優しく辺りを照らしていました。

「わあ、着物が塗れちゃったよ」

人の声は相変わらず聞こえています。かぐやはそっと声の方へ歩いていきました。

木々を抜けた向こうに、人の姿がありました。その時のかぐやと同じぐらいの、四、五歳くらいの男の子です。彼は袖と裾が広がっている、不思議な形の服を着ていました。流れる透明な液体の中に足を浸からせて、じっとりと重くなった袖を絞っています。

かぐやは一瞬、男の子のことを忘れました。

「すごい。本で読んだ通りだわ。透明な水が、曲がりくねりながら流れてる。これが川なのね」

男の子が弾かれたように振り向いたので、かぐやもぱっと飛びのきました。二人は互いに木に隠れて、見慣れない姿のお互いを観察します。

先に声を出したのは男の子の方でした。

「そなた、何者じゃ? 見慣れない服を着ておるの」

言葉には敵意がありませんでした。かぐやは答えました。

「私、ルチェア。あなたは?」

男の子が眉をひそめたのが、かぐやには分かりました。

「ルチ……? 聞き慣れない名だな。我は祐彦(さちひこ)じゃ」

かぐやは相手の怪訝そうな理由が分かりました。「ルチェア」が聞き慣れない発音で、声に出せなかったのです。

地球には、たくさんの言葉があると読んだわね……。かぐやは本の知識を思い返しました。

続けて尋ねます。

「貴方は、何をしているところなの?」

「逃げている」

「何から?」

そう聞いた時、祐彦(さちひこ)が後ろを振り返りました。

「隠れよ!」

こちらへ走ってきたかと思うと、かぐやの手を取り、一目散に走りだす。森のさらに奥深くまで入っていった。

茂みにしゃがんで身を隠すと、二人を追うような足音が近づいてくるのに気付く。茂みの隙間から様子をうかがうことができた。

大人たち三人ばかりが、四つ足で走る茶色い動物に乗っている。確か、馬という生き物だ。

彼らはしきりと辺りを見回して、何かを探しているようだった。

「お姿が見えたように思ったのですが……。ここにはおられないのでしょうか」

「他を探すぞ、ついて来い!」

先頭の男性が馬の向きを変えると、他の二人もそれに倣いました。

足音が段々と遠ざかっていきます。祐彦(さちひこ)はほっと溜息をつきました。

「ねえ、何から逃げてるの?」

かぐやは改めて尋ねました。すると、祐彦(さちひこ)はこんな風に答えました。

「城から逃げてきたのだ。あそこの生活には飽き飽きしている」

嫌に大人ぶった口調です。大人の言うことを真似しているのかしら。

見た目は同じ年頃でも、ずっと長く生きているかぐやは思いました。

祐彦(さちひこ)は続けます。

「我は将来、『帝』になるのだと言われている。だが、我はそんな堅苦しい生活をしたくないのだ。他の子と同じように遊んだり、好き勝手に走り回ったりしたい」

話す口調は切なげだった。かぐやはひどく祐彦(さちひこ)に同情した。今いる場所とは違う景色を見たい。それはかぐやが地球に来たかったのと同じ気持ちに思えた。

かぐやは祐彦(さちひこ)の手を取りました。

「じゃあ、いっぱい遊びましょ! 見つかったら謝れば良いのよ、大丈夫」

祐彦(さちひこ)はにっこりしました。

二人は森の中や川でたっぷりと遊びました。月の時間での一時間は、地球の一時間とは長さが違っていました。かぐやは祐彦(さちひこ)からたっぷりと地球の話を聞き、そして持っていた地球の貨幣などをもらいました。他に、持ってきた瓶に土や水、緑色の植物を集めました。

祐彦(さちひこ)もとても楽しい時間を過ごしました。川に足を浸して走り回り、木に登り、広い原っぱをかぐやと鬼ごっこして楽しみました。

空がオレンジ色になってくる頃、二人はさすがに遊び疲れて、並んで原っぱに寝転がりました。かぐやは言い表せないくらい幸せでした。

「空が綺麗。地球は本当に素敵なところね」

「我もそなたと遊べて楽しかったぞ」

「それは良かったわ。私もいろいろ教えてもらったし。ありがとう」

ちょうどかぐやが話し終えた時、服のポケットで音が鳴りだしました。タイマーの時間が来たのです。

「あら、夜の星空は見れずに帰ることになりそうだわ」

端末を取りだそうとした瞬間、うっかり帰るためのボタンを押してしまいました。

祐彦(さちひこ)が驚いて立ち上がりました。かぐやの体が光りだしたからです。

「ごめんね、私はもといた世界に帰らなくちゃ」

かぐやは光の中から手を振りました。祐彦(さちひこ)は呆然としています。

けれどもすぐに我に返って、かぐやに追いすがりました。

「帰ってしまうのか? また会えるのか?」

「祐彦(さちひこ)様!」

遠くから大人の声がしました。続いて馬が走ってくる音も。彼は見つかってしまったのです。

宮殿に連れ戻されて、また外に出かけられない日々に戻っていくのでしょう。かぐやも、もう二度とここには来られないかもしれませんでした。

けれど、かぐやの願いははっきりしていました。

「私、また貴方に会いに来るわ。一緒に遊べて楽しかった。貴方のことが好きよ。また会いましょう!」

いよいよ視界が光に包まれます。祐彦(さちひこ)の顔が見えなくなってきました。

「祐彦(さちひこ)様、一体城を抜け出して何をしておられるのですか」

「駄目だ、行かないでくれ!」

次に目を開けた時、かぐやは月の研究室にいました。