第1章

人気のない廊下。あたし、笹原美由宇は、そこから1年3組の教室を窺い見ていた。

とは言っても、自分のクラスなんだけどね。

教室の中で物音。はっとして目を凝らす。凍りつきそうな2月の太陽に照らされて、たくましい学ランの背中が帰り支度をしていた。今日は、珍しく部活が休みなんだ。昼休みに男子たちと喋っていた言葉が思い出される。

私は背中に隠していた包みの感触を確かめた。

あー。緊張する。

バレンタインって、便利なお祭りだと思う。

義理チョコの振りをして好きな人に声をかけたり、勇気を振り絞って思いを伝えたり。

変わらない毎日の中、「友達」のまま妥協してしまいそうになる気持ちをぐっと前に推し進めてくれるから。

だから私も、そんな恋の日の力を借りる。

心臓が痛いほど鳴ってうるさいくらい。唇を引き結ぶ。ドアを開こう。名前を呼ぼう。言う、言うんだ。

あのね。和人のことがずっと好きだった。小学六年生の去年から。これ、受け取ってください!

言葉はもう考えてある。昨日から練りに練った。それを言うだけだ……。

息を吸って、止める。その時、背中に回した手から包みの感触が消えた。

「何これ。クッキーか?」

「ちょっと!」

振り返る。声を聞いた時点で、顔を見なくても誰だか分かってはいる。

ほら。やっぱり。私はおもいきり顔をしかめる。

真後ろに立ってニヤついていたのは、クラスメイトの久保田麗音だ。サッカー部のエースだとかで調子に乗ってる、いけ好かない奴。

麗音は奪い取った包みをつまんで揺らし、意地悪く笑って見せる。取り返さなくちゃ。でも大声は出せない。教室にいる和人に気づかれたくない。

「返してよ!」

「ヤだね。食いモンだろ。ちょうど腹減ってたところでさ」

「アンタなんかのために作ったわけじゃないから!」

声量は落として、それでも怒鳴る。私は包みを奪い返そうとしたけれど、麗音は包みを持った左手を高く掲げてしまう。身長差があるせいで届かない。悔しいけど、麗音を睨みつけることしかできない。

麗音はニヤニヤしながら教室を覗き、それから私を見る。秘密を握った時の勝ち誇った顔になった。目を細める。

「ははーん。お前、森和人のこと好きなんだ?」

「ち、違うって」

反射的に否定するけど……かなり苦しい状況。麗音は得意げな顔を崩さない。

「へえ、じゃあ義理チョコか? それなら俺がもらっても問題ないだろ」

「駄目!」

ドアが横に開く音。私ははっとして振り向いた。

廊下のやりとりには気づかない和人が、エナメルバッグを肩にかけて帰ろうとしている。

麗音が私の肩越しに声を投げた。

「森!」

「ち、ちょっと!」

私は焦る。振り返った和人と目が合った。生真面目そうな茶色い目。エナメルバッグにかかれた野球部のロゴが夕日に光る。

続けて喋り出しそうになる麗音を遮って、私はわたわたと取り繕った。

「ご、ごめん。なんでもないの。また明日ね!」

「……おう。またな」

釈然としない表情ながら、和人は軽く手を上げて歩きだす。その姿はすぐ廊下の角を曲がって見えなくなってしまった。

私はああ言ったそばから自己嫌悪。

バレンタインデーは今日しかないのに。告白のチャンスを逃しちゃった。

でも少し話せただけでも良しとしようか……。いつもは緊張して話しかけられないし。

いや、今追いかければ間に合う。こいつからチョコを取り返して。

「それ返して!」

「今から追いかけるのか? それなら行ってこいよ。クッキーなんかなくても言うことは言えるだろ」

「そういう問題じゃないからっ!」

奪われたままの包み。麗音は小馬鹿にするように笑うだけだ。

昨日、私が和人のためにと思って焼いたチョコクッキー。友達に配ったやつとは包装も変えている、それしかない特別なやつなのに。

麗音は高く掲げたままの包みを眺めながら、独り言を装った呟きを洩らした。

「それにしても意外だなー。笹原って森のこと好きだったんだ? そういえば同じ小学校だもんな。もしかして、昔から?」

「ち、違うから」

「いいや、その顔は図星だな。んー、面白い。特ダネだ。すぐにシゲアキとフミトに広めて……」

ひ、広める!

「待って待って! 言いふらす気!?」

「だって面白いじゃんか。黙っておけねえよ。俺、ネタ探ししてるからさ」

私は頭が真っ白になりそうだった。

言いふらされる? みんなに? 笹原美由宇は森和人のことが好きですって? うわ、信じられない。私は残りの中学生活の間、学年全体から冷やかされて過ごすわけ?

それに、そうなったとしたら和人にも迷惑がかかる。もしかして私、このせいで嫌われるんじゃない? 告白する前から? 耐えられないよ。

何とか。何とかして阻止しなきゃ。

「ダメダメダメ! 言いふらすのは絶対にダメ。んー、そのクッキーはあげても良いから、言いふらすのだけはやめて!」

私、もう必死。だってこれからの生活が懸かってるんだもん。

懇願する私を、麗音は得意そうな顔で見下ろした。少し間を取って、言う。

「そんなに頼むなら黙っておいてやるよ」

「ほんと!? ありがとう!」

「た・だ・し。お前は俺と付き合え」

は?

私は目をしばたいた。耳を疑う。麗音さん、いま何とおっしゃいました?

「交換条件。俺は、今見た告白未遂の現場を黙っておく。その代わり、お前は俺の彼女に

なる。期限は、俺が飽きるまで。まぁ長くても卒業までだな」

告白未遂って。殺人事件みたいな言い回ししないでよ。っていうか、失敗したのあんたのせいだし!

頭の中は忙しく文句を並べるけど、一つとして口から出ることはない。麗音はしばらく様子をうかがうように私を見ていたが、やがて追い打ちをかけるように言った。

「別に無理矢理嫌なことはさせねぇよ。一緒に帰るとか、休みの日にどっか行くとか、そんぐらい。それとも何か? お前の恋心が広まっても良いのかよ?」

ここで「うん、いいよ」と開き直れたらどんなにかいいだろう。あいにく、私はそこまで度胸のある人間じゃない。

麗音はこの学年の、いやこの学校の有名人だ。厳しい審査を潜り抜けて、一年生にしてサッカー部のレギュラー入りしているんだから。うちのサッカー部はかなり強くて、ベンチに入ることすら難しいと聞く。

そんな麗音は、見ているとお調子者。でも他のクラスからもよく友達が来ているし、きっと顔も広いんだと思う。麗音が「広める」と言ったら……。文字通りに広まる。私は思考が停止しそうだった。

そして、私に残された選択肢は1つしかないような気がした。

観念して溜息をつく。

「分かった分かった。あんたと付き合うよ。その代わり、本当に黙っといてよ。誰かに広めたら張り倒すから」

「お、怖い怖い」

肩をすくめる。足元に置いていたリュックを肩にかけると、私から取りあげたクッキーを自分のポケットに収めて歩きだした。私はしばし呆然としてしまい、黙ってその後ろ姿を見送る。

人生初めての彼氏……が、あいつ。

中学生に上がって、なんだか大人になった気分がしていて。いつかマンガで読んだみたいな「心ときめく恋」ができるんじゃないかと想像していた。

始まってしまった現状は、私の理想とはかけ離れすぎている。なんなのこれ。悪夢? それなら早く醒めてよー!

今の私は麗音には1ミリたりともときめいてない。し、そもそもあいつとは「よく喋るクラスメイト」程度の関係だった。恋愛対象として見たことも一瞬もない。

どうしてこんなことになっているんだろう。

湧き上がる後悔をなすすべなく抱えて、私はとぼとぼと家路についた。