前話

その日の朝は緊張しかなかった。
待ち合わせは朝の九時なのに、私は早々と四時半くらいに目を覚ましてしまう。今日は優木に頼らずに着ていく服を選んだ。花柄のワンピースとベージュのトレンチコート。紺色のバッグを持って、茶色いブーツを履いたら、もう準備は完了。
早いうちに家を出た。
予定より一本早い電車に乗る。頭の中は聖夜さんと、告白の返事でいっぱいだった。
なんて言おう?
面と向かって「私も聖夜さんのことが好きです」って言いたい。言うんだ。
でもその瞬間のことを考えると。それだけで鼓動が速まって苦しい。緊張に緊張が上塗りされていく。一時頭から追い出そうとした。
中央駅に着く。この間と同じように、ステンドグラス前で待ち合わせ。
驚くべきことに、もう聖夜さんはそこにいた。
濃い色のジーンズと、ファー付きのダウンジャケット。赤い革のデザート・ブーツ。
あ、かっこいい。
ふわりと浮き上がるようにそう思った自分を、私は初めて許した。
うん。聖夜さんはかっこいい。
向こうはまだ私に気づいていなかった。そっと近づいていって「おはよう」と声をかける。気がついた聖夜さんは「おはよう」と穏やかに言って微笑んだ。
またそうやって目じりを下げる。目が合うたびに、私の心が音を立てる。
「早いね。まだ待ち合わせまで結構あるよ?」
「聖夜さんこそ」
笑って切り返す。聖夜さんは声を上げて笑い「そうだね」と頷いた。
私は優しく光る目(め)に見(み)入(い)ってしまいそうになって、そんな自分の気をそらそうと「は、早いけど電車に乗っちゃう?」と改札の方に目をやった。
「うん。そうだね」
聖夜さんも首肯する。連れだって歩きだした。
ディズニーランドまでは、電車を乗り継いで一時間ぐらいかかる。
私たちは運よく席を確保できて、のんびりおしゃべりをしながら向かうことができた。
「次は舞浜、舞浜です」
車内アナウンスが告げる。近くの席に座っていた男の子が「ママ! ここだ! ここで下りるんだよね!」と声を上げた。お母さんが穏やかに頷いている。私はそれを見てほっとした。
そうだよね、楽しみだよね。夢の国に行くのが。
「南波ちゃんは」
聖夜さんが話しかけてくる。私は視線を親子から聖夜さんへと戻した。
「南波ちゃんは、ディズニーランドに行ったことはあるの?」
「うん。中学校の修学旅行で。……あんまり覚えてないけどね」
初めて行ったものだから、パーク内の地形も分からなければ、どんなアトラクションがあるのかもわからない。友達はアトラクションに乗りたがり、また別の子はショッピングをしたがり……。何も分からない私は、とにかく友達について歩いていたのだけを覚えている。
「聖夜さんは?」
同じ問いを返すと、聖夜さんは目を輝かせた。
「僕は、家族がディズニー好きでさ。子供の頃はよく行ってたんだ。行くたびにミッキーと写真撮るために並んで」
「え!? ミッキーと写真撮るために並ぶの!?」
「うん。人が多い日だと平気で二時間待ちくらいになるよ」
「そうなんだ……」
私は衝撃を隠せなかった。
そんな私を見てか、聖夜さんは「大丈夫、他にも楽しいものいっぱいあるから」と笑いながら私を慰めた。
「人気の公園だと思ってよ。どこかでおやつ買って話しているだけで充分楽しめるところだから」
聖夜さんの言葉は確かに本当だった。
舞浜駅で下車したら、もうそこは夢の国の始まり。遠くにシンデレラ城と茶色い山肌の火山が見え、どこからか聞こえてくるBGMが気分を高揚させる。ゲートをくぐってパーク内に入った。人々のざわめきと音楽、そしてあちこち歩き回るキャラクターたちが私を迎えた。
「あそこの人だかりが見える? ミッキーがいるね」
後から来た聖夜さんが、あちこちにできた人だかりを指さして見せる。別の方向にはミニーマウスがいた。どっちもすごい人だかり。キャストのお姉さんが列を整備して、カメラを構えて……。
「奥に行くとお土産屋とかがあるよ。もっと先に、シンデレラ城」
ひとまず奥へ進んでいく。ガラス屋根のついた商店街風の通りを抜けると、ウォルト・ディズニーの像とシンデレラ城が見渡せた。
「うーん、どこから回る? 南波ちゃん、朝ごはん食べてきた?」
人混みを縫うように歩きながら、聖夜さんが尋ねてくる。私は見栄を張ろうとしたけれど、腹の虫が鳴りそうなので正直に言った。
「実は、食べてきてない」
聖夜さんは笑い声を洩らした。
「僕も一緒。じゃあ、まずは何か食べようか」
こうして輝くような一日が始まった。
時間はあっという間に過ぎて、空がどんどん暗くなっていく。
聖夜さんにいろいろ説明してもらいながらパークを一周して、幾つかアトラクションにも乗って。アトラクションから出るたびに傾いていく太陽を、私は何度か焦燥に駆られながら見上げた。
ああ、言わなくちゃ。
言わなくちゃ。
今日言うって決めてきたの。私は聖夜さんに気持ちを伝えるの。
その気持ちはあるのに、どうしても「聖夜さん。話があるの」って切り出すことができない。
アトラクションに目を奪われて、聖夜さんと話して、笑って……そしてふと思い出す。ああ、言わなくちゃ。そのたびに戻ってくる緊張。
そうこうするうちに、私の「言わなくちゃ」は「言おう」に変わっていった。
言おう、言おう、言いたい。
意思が決意に変わった時、私は夜の闇の中、ライトアップされたシンデレラ城を見ていた。
耳を包む人々のざわめき。城前広場に集まったたくさんの人。私と聖夜さんも、今はその人混みの中にいた。二十三時を回った空気は冷たいけれど、大勢の人のお陰でそれほど寒くない。
どこからか流れてくる音楽。その音に負けないように声を張って、聖夜さんが私に話しかけた。
「新年まであと一分だ」
弾んだ声。夜闇の中に浮かびあがった携帯のロック画面に、「23:59」の白い文字がくっきりと光る。すぐ隣で女の子のグループが歓声を上げたけど、私の耳にはほとんど入っていなかった。
大きくなってくる心の音。
新年まで、あと一分。
ライトアップされたシンデレラ城を見つめて盛り上がる人の群れ。ライトは次々に色を変えて、気分を盛り上げていく。歓声が大きくなるたび、私の鼓動も速まる。
言おう……言うって決めてたんだから。今日一日、ずっと。言いたい言葉を反すうして、何度も頭の中で練習して。
アナウンスが鳴る。新年まであと三十秒。二十秒。もうすぐカウントダウンが始まる。私は祈るように夜空を見上げた。舞浜の空は明るい。真っ暗な空に星は一つもなかった。
手拍子が始まる。
「十、九、八、七……」
目を閉じる。最後の最後に言いたい言葉を確かめた。
伝えたいこと、この気持ち。全部まっすぐに伝(つた)わりますように。
「三、二、一、ゼロ!」
新しい年の始まり。
花火のはじける音が耳を揺さぶる。私は目を開けた。明るく照らし出された城の後ろから、次々と花火が打ちあがっていく。金色の光が夜空を上って、大きく花を咲かせた。
右隣をちらと見る。花火に見入る聖夜さんの横顔。花火の色に染められる。私は唾を飲みこんだ。
「聖夜さん」
呼びかける。緊張を隠せなかった声は、思ったより小さく掠れていた。
それでも聖夜さんは聞き取ってくれた。私は聖夜さんと向き合っていた。
ああ。何度も頭の中で練習した。何度も何度も伝えた。まっすぐに目を見つめて。
一度しかない本番は、聖夜さんの目を見つめることはできなかった。あまりにも緊張して、顔を上げられなかったの。
ただ間違いなく伝わるように、早口になりすぎないように。必死にそれだけを考えていた。
「私ね……思い出したの。子供の頃のこと。泣いていた私を、聖夜さんが慰めてくれたこと。クリスマスのたびに会いに来てくれて、おしゃべりをしたこと。そして……聖夜さんのことが、ずっと好きだったこと。
忘れてしまってごめんなさい。聖夜さんも気持ちを伝えてくれたのに、逃げてしまってごめんなさい。もしもまだ気持ちが変わっていなかったら。私のことを嫌いじゃなかったら。私と、付き合ってください」
束の間の静寂。静かに注がれる視線を私は感じた。
そして聖夜さんは静かに「ありがとう」と言(い)った。
「こちらこそ、これからよろしくね」
息を呑む。驚いて顔を上げた。優しく微笑む聖夜さんと目が合った。
目じりの下がった、私の大好きな顔。
黒い手袋をした手が差し出される。私の手をそっと包みこんだ。胸が大きな音を立ててなったけど、握ってくれた大きな手をそっと握り返す。
打ちあがる花火に目をやった。
遠のいていたざわめきが、歓声が帰ってくる。花火が次々に花弁を開く。夜空に光を放って、きらめきを残しながら消えていく。それはまるでさっきとは違っていた。音も、景色も、温かい手のぬくもりも……急に研ぎ澄まされて私を囲んでいる。光り輝く、新しい世界。
変わろうとしている。素晴らしい方へ。よりよい方へ。
新しい始まりを感じて、私は笑った。
終わり