12月29日  帰還

それはクリスマス・イヴの日のことだった。

「じゃあ、お義母さん。南波を宜しくお願いします」

オレンジ色の電灯に照らされた玄関。低い声がそう言った。靴下越しに床の冷たさを感じる。あ、お父さんの声だ。と、思った。

両肩に温かい手が載せられる。おばあちゃんだ。

「はい。気を付けてね」

紺色の上着を着た人影が目の前にしゃがみこむ。私の視界に、明るい茶色の髪の女の人が入ってきた。お母さんだ。

「南波。お父さんとお母さんはクリスマスケーキを受け取ってくるからね。おばあちゃんと、いい子に留守番してるのよ」

優しい手が頭を撫でる。私は「うん」と頷いた。

クリスマスのお祝い。その途中に、お父さんとお母さんは大事なものを忘れていることに気がついた。ケーキだ。注文だけして、受け取りに行くのを忘れてしまっていたみたい。

二人はケーキを取りに、夜の世界に出て行った。私とおばあちゃんは温かい部屋の中で、クリスマスツリーの明かりを見ながら二人の帰りを待っていた。

二人はそれきり帰ってはこなかった。

時計の短い針が七を過ぎて八にかかる。私は床に広げたおもちゃを箱にしまいながら言った。

「おとうさんとおかあさん、遅いね」

「そうだねえ。……道が混んでいるのかもしれないね」

答えるおばあちゃんの声はとても堅かった。

電話が鳴ったのはその時だ。

受話器を取ったおばあちゃんは、最初黙っていた。空気が張りつめたことが感じ取れて、私は動かし続けていた手を止めた。顔を上げて見たおばあちゃんの背中は強張っている。部屋が急に寒くなる。

「……はい。はい。分かりました」

おばあちゃんのじゃないような声で言って、受話器を置いた。どうしたの、と私は聞いた。振り返ったおばあちゃんはしかし、笑顔を浮かべていた。少し無理しているのが伝わる表情ではあったけれど。

とても言えなかったんだろう。四歳の私には。

お前のお父さんとお母さんはもう帰ってこない。横から飛び出してきた車にぶつかられて、何も分からなくなってしまったんだよなんて。

その後のことを、私はよく覚えていない。

布団の上に座りこんで泣いている。私の次の記憶はそこから始まる。

暗い部屋。隣の布団がふくらんでいて、おばあちゃんが眠っている。泣きつかれたまま眠ってしまったのだった。

お父さんとお母さんが帰ってこない。

何があったのか分からない。おばあちゃんは何も教えてくれない。でも、おばあちゃんが泣いている、きっと何かあったんだ。空気に漂いだす不安だけは私にも感じ取れて、だから私も不安でいた。何が起こったか分からない。でも、きっと、何かあった。どうして二人は帰ってこないの? 二人はいつ帰ってくるの?

どうしよう、分からない。

重々しい不安に押し潰されてしまいそうだった。

怖い、怖い。悲しい。涙が次々に溢れてくる。

冷たい風が吹きこんできた。カーテンが揺れて白い雪が舞う。私はそれを不思議に思って、でも涙を止めることができなかった。

「どうしたの?」

声をかけられて、私は初めて涙をこらえようとした。柔らかく響く男の子の声。私は絞り出すように声を発した。

「お父さんが……お母さんが。帰ってこないの」

言葉にするとまた悲しみが増したように思えて、私は吐き出すように泣いた。

しばらく男の子は黙っていた。それから黒い手袋をはめた手を慎重に伸ばして、そっと私の頭を撫でる。少しぎこちなくて、でも、優しかった。見上げた顔は九歳かそこら。夜を閉じこめた色の髪と目をしていた。その子は言った。

「大丈夫。二人は遠くに行ったわけじゃないよ。ちゃんと君のことを見守ってる。だから、もう泣かないで。笑ってごらん」

私は必死に笑おうとした。うまい笑顔じゃなかったかも。

それでも男の子は大きく頷いてくれた。

「またね、南波ちゃん」

開いた窓の方へ歩いていく。宙に停められたソリにひらりと飛び乗る。その姿はあまりにも不思議を孕みすぎていて、私は片時も忘れることがなかった。次のクリスマスまで。

そしてこれが私とサンタクロース――聖夜さんとの出会いだった。

 

クリスマスにプレゼントを配る。それがサンタクロースの仕事。

聖夜さんはサンタとしての仕事を覚えている最中で、お父さんのソリに一緒に乗ってやってきた。

そしていつも私のところには最後の最後にやってきて、プレゼントを渡してくれて、少し二人でおしゃべりをした。二、三年すると聖夜さんも一人で仕事に出るようになって、そうなったらソリに乗せてくれたりもした。

おばあちゃんはクリスマスを祝わない。それは私の両親の……そして、おばちゃんの娘と義理の息子の命日だから。でも私は御馳走も、ケーキも、ツリーもなくて平気だった。聖夜さんに会えること、それが一番の楽しみだったの。

でもそんなクリスマスが六年ばかり続いた頃、事情は変わった。

「お前、まだサンタなんか信じてるのか? ダッセー! サンタクロースは親に決まってるだろ」

昼休みの教室。大声でからかう男の子の声がする。

学年が上がるにつれて少しずつ、「サンタクロースはいない。親がそっとプレゼントを置きにきているだけだ」と話す友達が増えていた。私は意見を求められても何も言わなかった。サンタクロースは本当にいる。それは誰かに共感してもらわなくても、分かってもらわなくてもいいの。私が確かに知っているんだから。

でも、私は聖夜さんを信じ切ることができなかった。

周りでサンタクロースを信じる人が減るたびに、私の中で疑いがふくらんでいった。サンタクロースは本当にいるの? クリスマス・イヴの時にだけ現れる聖夜さんは本物なの? それとも、両親が命を落として悲しんだ、幼い私が創り出した妄想なの? 幸せな夢に過ぎないの?

……みんなが「サンタなんていない」と言う。きっと、そういうものなんだ。

その年から聖夜さんは来なくなった。

生まれた時からかかっていた、妖精の魔法は解けてしまった。あとには現実だけが残された。

解けた魔法は私に忘れさせてしまった。クリスマスのすべてのきらめき、待ち望んだ窓の開く音、別れ際に頭を撫でてくれた手の温かさ。そういう全部を。

私は忘れていた。ずっと忘れていた。

大事な聖夜さんのことを。

ずっとずっと昔から、あの人の事が大好きだったことを。

 

目を開ける。気を失うように眠った姿勢のまま、私はベッドにうつ伏せになっていた。寝返りを打って天井を見上げる。しばし呆然としてしまった。

「……謝らなきゃ」

体を起こす。整理されてモノの減った部屋が私におはようを言った。部屋に流れる澄んだ空気に顔がほころぶ。

鞄から携帯を取り出してTALKを開く。聖夜さんとのやりとりが画面に広がった。時間を確かめると、今は朝の五時半。まだ寝ているかな。迷惑かな。でも、いま言っておかなくちゃ。言いたい。

私はメッセージを打った。

「聖夜さん、おはよう。

この間は失礼な態度をとってごめんなさい。せっかくディズニーランドに誘ってくれたのに……あんな反応しかできなくて、本当にごめんね。

もしも聖夜さんが怒っていないのなら、ぜひ一緒にディズニーランドに行きたいな」

考えに考え抜いて、結局送ったのはこういう文章だった。ドキドキして返事が気になったけれど、朝ごはんを食べたり支度をしたりしているうちに、もうバイトに行かなきゃいけない時間。私は携帯の通知音を気にしながら電車に乗った。

返事は、バイトが終わった時に来ていた。読んで思わず肩の力が抜ける。

「南波ちゃん、こんにちは。

ディズニーランド、行けるんだね! ありがとう。僕は失礼だなんて思っていないし、怒ってもいないよ。大丈夫」

喜ぶと同時に、新しい緊張が私を包みこんでもいた。

告白の返事を打つことはできなかった。勇気を出そうとしたけど、できなかったの。それは恐かったからじゃない。自分の気持ちを、思い出したことを、直接、聖夜さんの顔を見て、伝えたいと思ったから。

次に会った時、必ず伝える。聖夜さんのことが好きですって。

固く心に誓った。