12月28日  手を放す

こんなに自分と向き合うような行動をしたのは、ひょっとすると初めてのことかもしれない。

変わりたい。いつかはもっと素敵な人に、いつかはもっと素敵な私に、なりたい。

その「いつか」は今まで来なかった。それは私の運が悪いからじゃなくて。私が本気で変わろうとしていなかったからなのかもしれない。

散らかっていた服を一箇所に集めて、スペースを広げる。その間にもう着ない、好みが変わって着ることはもうないだろうなと思える服は、引っ張りだしてきたゴミ袋にまとめて入れた。引き出しとクローゼットの中身も全部出した。こんなに持っているなんて知らなかったたくさんの服。そのほとんどが存在すら忘れてしまっていたもので、私はそのことに愕然とした。

それでも全部間違いなく、私がかつて選んで買ったもの。それらを一つひとつ残すか、捨てるか決めていく作業は、過去の自分と向き合っていくことに等しかった。

流行っているらしいからと買ったもの、他人に憧れて買ったハイヒール。

薦められて買った上着。高かったと思って手を止めそうになるけど、私はそれを丁寧に畳んで袋に収めた。自分の好みじゃなかった、私はこれには「ときめかない」。そうはっきり気づいてしまったら、もう自分の心を無視し続けることができなくなったの。

私が周りに流されて手に入れたものは本当に多かった。

上着も、スカートも、帽子も、ネックレスも、鞄も、ペンも、手帳も、部屋のインテリアさえも。

私は何が好きで何が嫌いか。言い換えれば何に心がときめくのか。今まで全然分かっていなかったんだ。

自分のことが分からなかったから、あんなに頭がごちゃごちゃして、何も分からないようになっていたんだ。

積み上げられた服の山は、少しずつ二つに分かれていく。手放すものと残すもの。黙り込んで、もはや無心になって、私はひたすらに目の前のモノと、そして自分の心と、向きあっていった。

服の山が完全に二つに分かれて、片方は大きなゴミ袋五つ分にもなっている。私はプラスチック製のかごに何となく入(い)れていた文具類を目の前に持ってきた。

企業のキャラクターがついたボールペン、目盛りがかすれた定規。うーん、もっと可愛いものを持ちたい。あ、このペンは新品だ。まだ袋から出してもいない。優木がくれたやつだって。このピンクと白の模様はかわいいな。

そっか、私はピンクが好きなんだ。

仕切りの下からくすんだ色の五円玉が姿を見せる。私は近くにあった財布にそれを入れた。

溜まりっ放しだった食器を洗って片付けて、ついでに箱に入れっぱなしだった食器たちを棚から出してみる。うーん、今使っているものだけで事足りているし、使わないかな。どこかに売りに行こう。

良いものが見つからないからと妥協して買ったこたつも、使っていなかったアロマセットも、感謝しつつ手放すモノの山に含まれた。久しぶりに姿を見せたフローリングは少し恥ずかしそうにしていた。私はゆっくり丁寧に掃除機をかけ、即席で作った雑巾で丁寧に拭き掃除をした。そしてまた自分の持ち物と向き合っていく。

玄関ドアについたポストが持ち上げられる音。

「南波~。いる?」

我に返った。優木の声がする。立ち上がって玄関に向かった。

かき分けた空気は今までより軽くて、明らかに澄んでいる。ドアを開けたら太陽に照らされた優木がいて、私は世界の明るさにびっくりした。

あれ、太陽が昇るような時間なの?

「んもう! バイトに来ないから、みんな心配してたんだよ? 電話にも出ないし」

「バイト!? いま何時」

「午前十時! 南波のシフトは七時から十時だった」

「うそ! もう終わってるじゃない!」

集中していた私は、優木の顔を見た瞬間に現実に引き戻された。

こんなこと初めて。どうしよう、どうしようと焦る私を、優木はしばらくの間呆れたように見つめていた。

でもやがて息を吐くような笑い声を洩らし、表情を緩める。そこいたのはいつもの優木だ。

「大丈夫。みんな怒ってなかったよ。むしろ心配してた。病気で倒れてるんじゃないか、とかさ。あたしだってそう思って見に来たんだし。でも、その様子だと元気みたいだね。良かった、よかった。で、何してたの?」

「へ、部屋の片づけを」

「ふーん」

優木は私の横をすり抜けて家に上がる。私の部屋がもともと散らかっているのを知っている人だから、私は止めることはしなかった。

「片付け!? 持ち物全部出てるじゃない。ますます散らかってる!」

明るい笑い声が響いてきて、私も室内へ戻った。

これからも大事にするもの、手放すものを分けて……きっと傍から見たらますます散らかっているのだろう部屋の真ん中に、優木が立っていた。小さいつま先をせわしく動かして、何度もくるくるくると回って部屋を眺めている。引き出しが全部出されて積み上がったのとか、服を減らしたせいで異様なほど余ったハンガーの山とか。私はゴミ袋の山を踏み越えてカーテンを開けた。生まれ変わったように掃除された床に陽光がさしこむ。文字通り、時間を忘れて片づけに没頭していたんだな。

「随分大がかりだね。でも、そのぶんすっきりしたように見えるよ、南波が」

「私が?」

優木は大きく頷いた。

「うん。すごく清々しい顔してる」

言われて、でも実感がわかないから首をかしげる。優木は「それよりさ」と明るい声を出した。

「早く店長に連絡して、元気ですって言いな。そんで、まだ終わってないんでしょ、片づけ。あたしにも手伝わせてよ」

手伝う? 何を。

それにも首を傾げると、優木はゴミ袋の山を指さした。

「あれ、捨てるの? 漫然と捨てるのはもったいないかと思ったんだけど」

「ああ、古着屋さんに持っていこうかなと思ってた」

「車。出してあげるよ」

自慢げに胸を張った。そう、優木は私と違って自分の車を持っている。

「な、なんでそんなありがたいこと」

「南波が気合入れてるから、応援したくなってさ~」

「あ、ありがとう」

驚きを隠せないまま感謝の言葉を口にした。優木は私の目を覚ますように、大きな音で二度手を打つ。

「そうと決まったら早く! 店長に電話!」

「は、はい!」

私は袋につまづきながら携帯電話を手に取った。もうどっちの家なのやら分からない。

でも、それでも背筋を伸ばして立っている私が確かにいた。自分の中に確固とした「私」という軸ができて、それが自信を支えている。私は何が好きで何が嫌いか、何を持ちたくて何をやりたくて、誰と一緒にいたいのか分かりはじめていた。

私は私を取り戻し始めていた。

 

店長は一切私を叱らなかった。優木の言葉通り、怒りより心配の方が先に立っていたみたい。「元気です。大丈夫です。本当にすいませんでした」と平謝りする私に「いいよ。何事もなくてよかった。明日は元気に働きに来てね」とまで声がけしてくれた。

優木も優木で私の片づけを大いに手伝ってくれた。まだすべてのモノを選んだわけではなかったから、私はまずそれに取り組んで、優木はその間私の気を散らさないように、手放そうと思って積み上げていた少女漫画を読んでいた。

気づいたらもうお昼。私たちはわいわい言いながら、冷蔵庫にあったものでオムレツを作る。部屋が散らかりすぎていて、私は今まで家に友達を呼ぶという経験をしてこなかった。優木が勝手に上がりこんできたぐらい。二人分の食事を作るのが久しぶりで、私はふとおばあちゃんのことを思い出した。

実家で元気に暮らしているおばあちゃん。私が大学に入って一人暮らしを始めるまでは、ずっと一緒に暮らしてきた。料理はおばあちゃんに教えてもらっていたし、よく私が当番になって夕食を作ったりもしたっけ。

お菓子作りも好きだった。湯煎をして、チョコレートが溶けていく時の香り。ケーキが焼き上がるまで待つわくわく感。クリスマスの時にはジンジャークッキーを焼いて、丁寧にラッピングして……誰かに渡そうと……。

あれ。

誰よりも喜んでほしかった人。「ありがとう」って笑ってほしかった人。

そんな人が確かにいたはずなのに、一体だれのことだっけ?

「あのマンガ、昔ハマってたなー」

オムレツを頬張って、優木が部屋の隅を指す。私を待つ間に読んでいたやつだ。優木の気遣いもあってすごく集中できて、私はこの家にあるすべてのモノ、つまり私の持ち物すべてと向き合うことができた。今や私は、この家にあるものすべてを知り尽くしている。胸を張ってそう言い切れる。

私も積み上げた本を見て「うん。面白い話だよね」と相槌を打った。

長編の恋愛モノだ。ただ絵が綺麗なだけじゃなく、セリフに雑学が入ってたり、登場人物の心情がすリアルに描写されていたりで、読んでいて共感できるところ、別の考え方に触れるところ、たくさんあった。物の見方が凝り固まっていた私は、あれを読んだことで人の数だけ生き方と哲学があることを知った。

すごくお気に入りのシリーズだった。そう、「だった」の。今ではもう昔の話。今の私には、もう必要のなくなったもの。あの時は本当にありがとう。これから売りにいくモノたち。どうか良い人に買われてね。

穏やかにそう思っている自分に気づいて、私は驚く。不思議なほど落ち着いていた。今までずっとごちゃついていた部屋を片付けたら、心の中までスッキリ整理されて、冷静に、穏やかに、世界を見ることができている。

「南波~。急かすつもりはないけど早く食べ終わって」

間延びした声。対面する優木の皿はすでに空になっていた。私も慌ててオムレツに取り組んだ。

 

全部のモノをリサイクルショップに持っていくのに午後中かかった。優木の車は軽のワゴン車なんだけど、私の部屋から出ていく大量のモノたちはとても一度じゃ運びきれない。家と店の間を何度も何度も往復してくれて、それですべてのものをつつがなく手放すことができた。

「優木、ありがとうね」

「ほんとよ~。今度ケーキ奢って。元町珈琲のやつがいい。冬の季節メニューあるでしょ。期間限定のやつ」

「ふふふ。はいはい」

全部のモノの査定が終わって、承諾書を書いて、お金を受け取る。思ったより高い金額になった。

薄暗くなる道を、助手席から眺める。意図しないうちに口から「ありがとう」の言葉が洩れていた。心からの感謝を込めた響きに、口に出した私自身も、そして優木もびっくりする。

「な、何さいきなり。そんなに丁寧にお礼言われると反応に困るよ」

ちょっと慌てている。私は自分が穏やかに微笑んでいるのを感じながら言っていた。

「本当に、心からそう思ったの。私の片づけを手伝ってくれてさ。荷物を一緒に運んでくれて、車まで出してくれて。後先まったく考えてなかったけど、もし優木が来てくれなかったら、もっと時間がかかっていたと思うもの」

「そ、そうかな」

優木が珍しく照れている。私はちょっと声を出して笑った。

家の前で車が停まる。「また明日、バイトでね」と言い合って、私は遠ざかる車を見送った。

ゆっくりと家に入る。電気をつけて目に飛びこんできたのは、昨日までとはまるで違う部屋。気のせいか漂う空気まで軽くなったように思う。

どこもぎちぎちに衣類が詰まっていた引き出しは丸々空いて、服類はすべてが備え付けのクローゼットに収まった。本棚も寂しそうに見えるほどスペースがある。これから読んでいきたい本、心から好きな本でこの隙間を埋めていこう。

部屋の真ん中に立って周囲を見回して、私はほっと満足の溜め息をついた。なんだか、心がすごくすっきりした。

いちばんぴったりくるのは、生まれ変わった、という言葉。

私は、これからなんでもできる。やりたいことが全部できる。なんでもなりたいものになれる。大きな自信と信頼が私を包みこんでいた。

そして、急にこみ上げてくる眠気も。

今日はいつになく動いたし、思えば昨日から寝ていない。

鞄をそっと置いてベッドに倒れ込んだ。軽くなった空気を胸いっぱいに吸い込む。ますます心が軽くなる気がした。

幸せ。私はいま、幸せだ。

何もしなくても今の私は幸せだ。なんでか分からないけど。

もしかしたら幸せであることに、理由なんていらないのかも。

ああ、今日は良い夢が見られそうだな……。

ゆるやかに沈みこんでいく意識。気づいたら寝入っていた。

そして、遠い遠い夢を見た。