12月25日  久利州聖夜

駅に設置された大時計は十三時半をさしている。

ファミレスでのバイトを終えて店を出た私は、駅ビル内の喫茶店を目指して歩きだした。昼時を少し過ぎた店内はざわめきに満ちていて、でも私がミルクティーを受け取って席を探していると、ちょうどソファ席が空いた。一人掛けのソファが向かい合わせ二つ置いてある。ソファ席がいいなー、なんて思っていたんだよね。ラッキーだ。

熱々のミルクティーをほんの少し飲んで、一つ息をつく。もうちょっと冷ましておこう。舌を火傷しそうだ。頬杖をついて窓の外を眺めた。

考えていたのは、昨日のこと。

寒空の下でソリに乗って、妖精の不思議な話を聞いた……気がする。よく覚えていないんだ。

今朝目を覚ましたら、朝の六時過ぎ。いつもバイトのために家を出るような時間。私は頭にぼんやりと残るような低い声を考える間もないまま、大慌てで家を飛び出してきたのだった。

バイトは忙しかったけど、合間に頭をよぎるのはその不思議な記憶、みたいなもの。夢? でもそうとは思えない。同時に現実だったとも思えないでいる自分がいる。そんなの、ただの空想よ。ソリが空を飛んでた? きっと子どもの頃に読んだ絵本か何かを思い出しただけだってば。

押しつけるように告げてくる声があるけど、私は「でも」と反論している自分に気づく。

私はあの「声」を覚えているの。低くて柔らかく、温かく響くあの声を。そんなにリアルなものが、本当に「ただの夢」なの?

「南波ちゃん」

そうよ。あの声で名前を呼ばれた時、私は確かに懐かしいと思った。その気持ちは、耳に触れた声は、紛れもなく本物。

「南波ちゃん」

ちょうどこんな風な呼び方をしてくれて。

ん?

近くに立つ人の気配に気づいて顔を上げる。明るい茶色のダッフルコートを着た男の人がいた。

夜空を閉じこめた髪と目。目じりをきゅっと細めて微笑んでいる。

あ。と思った。 貴方は、昨日の。

ずっと昔の。

「一緒に座らせてもらっても良いかい?」

私の向かい、空いていたソファをさす。私は驚きを拭えないままに「どうぞ」と頷いた。

男の人は静かに腰を下ろし、両手で持っていたトレーをテーブルに置く。載っていたのはウインナーココアとチョコレートドーナツ。チョコ尽くしだ。

トレーを見つめる視線に気づき、男の人はドーナツの皿を指した。

「食べる?」

「い、いや。大丈夫」

裏返った声で首を振る。男の人はさっぱりと「そっか」と頷き、ドーナツを一口かじった。口元が自然と上向いている。チョコが好きなんだなー。私は思わずくすりと笑った。

それで緊張が緩んだ。勇気を振り絞って声を発する。

「あの……さ。昨日、どこかで会ったりしなかった?」

問いかけた。どこかで、と言葉をぼかしはしたけれど、私の定まらない記憶は少しずつ形を取り戻しはじめている。

確信していた。

私はこの人と、昨日の夜空の中で会っている。声の響き。間違うはずない。

「うん。覚えていてくれたんだね」

その人はこともなげに頷いた。期待通りの反応すぎて、私は逆に驚いてしまう。男の人は私の心情には気づかず、指についたホイップクリームを舐めとって言う。

「年齢に関係なく、僕に会ったことを忘れてしまう人は多いから。南波ちゃんは忘れなかったんだね。嬉しいよ」

視線を上げてにこりと笑う。その顔が昨日見たサンタクロースのそれと重なった。

私いま、サンタクロースと向き合ってお茶を飲んでいるんだ。不思議だな。

重ねて問う。

「どうしてこんなところにいるの? フィンランドとか……。サンタの国に帰ったりしないの?」

「僕、人間界に留学してるんだ」

クリームとココアをよくよく混ぜて、一口飲む。それから背筋を伸ばして語りだした。

教えてくれたのはこういうこと。

サンタ族は妖精の一種であり、多くの妖精は人間と少し違う世界に住んでいる。妖精たちは二つの世界を自由に行き来することができる。

妖精の中には、時折もっと人と身近に関わりたいと思う存在もいる。

そのような妖精は「留学」という形で、人間に混ざって生活することを選ぶ。留学はその存在が続けたいだけ続けることができる。

「妖精も人間と同じように年を取るんだ。ただ、何千年と生きている存在でも、見た目は三、四十代くらいに見える。僕は、見た目の通り二十五歳。留学を始めて十年になるよ」

心底楽しそうに話す。

男の人が口をつぐむ。深藍色の目がきらきら光った。

私はそのきらきらの正体に気づく。好奇心だ。それも純粋な。決まりきったやりとりや礼儀とかじゃなく、本当に心から、私に関心を持ってくれている。

「南波ちゃんは、今は何をしているの?」

「……今は、大学二年生。あと、この近くのファミレスでアルバイトを」

どうしてだろう。別に疚しいことをしているわけじゃないのに、自信が持てない。漠然と「私はそんなところで何をしてるんだろう」という思いがよぎった。

変わりたい、変わりたい。

どういうふうになりたいのか分からないけど、でも、変わりたい。

男の人は「すごいね!」とぱっと笑った。本当に「ぱっ」と。

こんなに素直な表情は、久しぶりに見た気がする。

「大学行ってるんだ! すごいなあ」

「そ、そんなに褒めてくれるようなこと?」

「うん。僕は高校を卒業してから働き始めたから。やりたいことができちゃってね。どうしても今すぐ始めたくて、大学には行かなかったんだ」

私は思わず黙りこんだ。大学に……行かない。そんな選択肢もある? 良い大学に入って、良い会社に入って、良い人と出会って、良い家庭を作って……。それが歩いていくべき線路だと思っていた。「やりたいことって?」尋ねていた。

その人は言った。

「小説家」

その言葉が持つ響きに、いや、小説家と口にしたその人の声の力強さに、私は自分にはない迫力を感じざるを得なかった。

明確にやりたいことがあって、それに向かって進んでいる人の、情熱を織り交ぜた目。自信に上向いた口。それはあまりにも眩しく思われて、そして羨ましくて、私ははっとさせられる。

「僕、妖精の国でも文章や詩を書くのが好きでさ。よく書きためているんだ。それで、こっちの世界でも僕が通用するか知りたくなって。誰かに文章の指導を受けたりとかはしないで、自分なりのやり方で試してみたい。そう思ってさ」

でもね。と男の人は頬を掻いた。きりりと情熱に満ちていた顔が柔らかく崩れる。私は眩しい熱から解放されてほっとした。

「やっぱり審査は厳しいね。なかなか賞が取れなくて。だから今も、デビュー目指して執筆活動中。あとはバイトかな」

「なんか……すごいね」

私は気圧されながら相槌を打つ。心が波立っていた。

目の前に座るこの人は、すごいところを目指している。夢も、目標も、何もない私と違って。

私は何をしたいの? 好きなことはなんなの?

分からない。思いつけない。見えない。

ああ、私って駄目な人だ。

いろんな思いが渦巻いて、「頑張ってね」「応援してるよ」って言いたいのに、言えない。私はそんな自分がまた嫌になる。

素直に応援しないと駄目だよ、人の夢。

「よいしょっと」

もやもやと考えこんでいるうちに、男の人は席を立っていた。空のカップと皿を返却口まで持っていき、席に戻ってくる。

「僕、そろそろバイトなんだ。もう行くね」

「あ、あのさ!」

私は男の人を呼び止めていた。自分でもその行動にびっくりする。それでも口を動かし続けた。

「もしよかったらTALKのID……交換しない?」

TALK。若者の間で特に流行っている無料通話アプリだ。優木に薦められて、私も使い始めた。

その人は顔を輝かせた。

携帯の画面に二次元バーコードを表示して差しだす。男の人が起動させたバーコードリーダーがそれを読み取り、友達登録が完了した。

新しい友達が増えました、と私の画面にも表示される。私は思い返せば、その人の名前をいま知ったことに気づいた。

「久利州(くりす) 聖夜(せいや)……って、これ本名なの?」

「うん、一応。向こうではノエルって呼ばれてるんだけど、さすがに日本でノエルはなかなかいないかなーと思って」

「クリスマスを全面に押し出したような名前だね」

笑いながら言うと、聖夜さんも笑った。

「そうだね。だって僕、サンタクロースだから」

明るく言う。そのはっきりした声は、陽だまりみたいに私の心を明るくした。

茶色いダッフルコートの背中が遠ざかっていく。その姿が人ごみにまぎれて見えなくなるまで、私は彼を見送っていた。