こんにちは。皇月ノエルです。
『すばらしい新世界』はこんな人におすすめです!
- ディストピア小説が好き!
- 「理想的な社会とはどういうものか」について考える材料にしたい
- 現代の延長上にある、「ぶっ飛んだ世界観」に浸りたい
人と趣味について語れたら……
小学生の頃、周りに趣味の合う人が少なかったです。
大好きだったプリキュアは「子どもが観るもの」と言って馬鹿にされ、
分厚い本を読んでいると「難しそう」と言われるだけで終わり。
ヘキサゴンは私しか観ていなくて、
ファイナルファンタジーもキングダムハーツも、誰も知らないゲームでした。
そうしている間に、私は「共通の趣味について語る」経験値が溜まらないまま成長し、人と趣味を共有する方法が分からなくなっていました。
でも、本/映画などを見ているうちに、「これってどういうことなんだろう」「他の人はどういう捉え方をしているんだろう」「自力ではどうしても釈然としない」という、考察の行き詰まりに遭遇することがあります。
身近な友人に話すことの代用として、考察記事を上げたりTwitterを泳いだり、「○○ 考察」と検索したりしてきました。
が、先日、共通の本を読んだ友人と話す機会があり、勇気を持って「だいぶ前のことでしたが……」と、話題を振ってみることにしました。
私が話したかったのは、この本について。
オルダス・ハクスリー著『すばらしい新世界(新訳版)』です。
私の感想
最初にこの本を読み終えた時、私の中には釈然としないものが残りました。
まずは私の感じたことをまとめていきます。
理詰めで世界を考えたら、の最終形態
詳述は世界観に触れてしまうので避けますが、非常に高度な科学が進んだロンドンが舞台。
めくるめく映画の序盤めいた始まりには、「ええっ! 小説でこんな表現の方法もありなのか」と衝撃を受けました。
理詰めで効率を考えたら、どういう文明社会が形成されるのか。
その最終形態が本の中に広がっているな、と感じました。
私からすれば「その生き方って、狭くない……? 楽しいの?」と感じてしまうのですが。
三大欲求は巧みに満たされているので、不満を感じることはとりあえずなさそう。
そして身を任せて、生まれた時からその世界の価値観に浸されていれば、世界の構造に疑問を持つこともなさそう。
寂しいようで、やっぱりどこか合理的。
心はついていかないのに、効率の良さは認めざるを得ない、矛盾をはらんだシステムです。
神に代わったフォード様信仰
特に、商業主義がつきつめられている表現としての「フォード様信仰」は秀逸。
「Oh my god!」の代わりに、物語の中では「Oh, my Ford!」や「Thank Ford!」が使われているのです。
T型フォードを開発した人が崇拝されているわけです。もはや神様でもなく、元人間。
慣用的な言い回しがすべて「フォード」に差し替えられていて、言葉のニュアンスは伝わるのに、異質な世界を感じられるから、ものすごい上手いところをついてるなと感じます。
時代を超越する物語
これが90年以上前に書かれた作品だというのも、空恐ろしさの理由のひとつ。
時代が移り変わっても「すごいな」「こうなったら嫌だな」と思わせるということは、作中の最終形態に到達してしまいそうな手がかりが、現代にもあるということ。
一歩間違えば、これに似た世界は実現してしまう。
こうなったら、なんだか嫌。
作品はどこまでも不安にさせてきます。
衝撃の終わり方。違和感しかなかった
物語の締めくくりは衝撃的でした。
「えっ……そんな終わり方?」
いちばん釈然としなかったのは、2人目の主人公、ジョンの行く末です。
私はどちらかというと感覚的な本の読み方をするので、「文章の流れ」とか「文のエネルギー」なんかをも感じ取ります。
終章のジョンの描写にさしかかった時、明らかに文章のエネルギーが変わったのです。
作者の恣意が多分に含まれているというか、ジョンの動きがぎこちないというか。
自分で文章を書いていると分かるのですが、キャラクターが普段しないようなことをさせる時って、全然動いてくれなくなるんです。
それを作者が無理矢理動かそうとすると、キャラクターの描写、セリフ、すべてがぎこちなくなる。
結果、無理矢理書き進めて完成させたとしても、見直しでその部分にさしかかると「ぎこちないな」と感じることになる。
そのぎこちなさが、『すばらしい新世界』からも感じられたのです。
けれど、きっとこの作品が評価され、これだけ長期的に刊行され続けているということは、終わり方がこれでも良かったんだろう、私の視野が狭いだけかもしれない……。
そうやって自分を納得させようとしながら「訳者あとがき」に進むと、衝撃の文章が目に飛び込んできました。
この衝撃のラストについて、著者は、一九四六年に刊行された『すばらしい新世界』の新版に付した序文の中で、野人ジョンに、野蛮が文明か、二つの選択肢しか与えなかったことが本書のもっとも大きな欠陥だと述べ、(新訳版367-368ページから引用)
おい!
作者がラストを否定してどうするよ!
自分を無理矢理納得させようとしていた私はどうなるんよ!
やっぱり違和感だらけじゃねえか!
言いようのない複雑さに飲み込まれ、「世界観も設定も価値観も作りこまれていてすごいのに、ラストに作者の強烈な恣意が入った作品」という捉え方に落ちつくしかありませんでした。
目から鱗! 友人の捉え方
以上のような話を、思い切って友人にぶつけてみたのです。
友人は会話の引き出しが非常に多い人で、学生の頃からいろんな雑学やアドバイスをくれる人でした。
だからこそ気後れすることなく、「私はこう思ったのですが、どう思いましたか」と話題を振ることができたのです。
少なくとも、「難しくて、よく分からなかった」とか、「そこまで深く考えては読まなかった」とかは、絶対に言わないと確信していたからです。
全方面を皮肉った思考実験
友人は私とは違い、社会システム等を俯瞰して読む、客観的な視点の持ち主でした。
まず出てきたのは、「皮肉」という言葉。
抑圧された性。
不平等な社会。
宗教。
政治。
仕事。
恋愛。
人間関係。
価値観。
『すばらしい新世界』とは、人類社会すべてのもの、過去、現在、未来すべてを皮肉った作品であり、思考実験だというのです。
究極の効率化を求めた姿を皮肉ったのが、近未来ロンドン。
未分化へ回帰したい気持ち、回顧主義を皮肉ったのが、野人ジョンのいる保護区。
私は保護区のこともどう捉えて良いか分かっていなかったのですが、友人の話を聞いて納得する面が多分にありました。
保護区では、宗教の垣根を越えて、キリストや他の宗教の神々、さらには残ったシェイクスピアの文献がごちゃまぜに信仰されています。
そこにあるのは混沌であり、無秩序。
ロンドンと保護区はその清潔感、文明の発達などの対極性に加えて、「効率化を徹底した姿」と「未分化に極振りした姿」として対比されているのです。
けれど読者は、そのどちらの暮らし方にも全面的に「良い!」と共感することはできない。
あまりにも極端すぎるからこそ、現代社会の問題点を考えるきっかけになる。
ジョンの結末について
私が「ジョンの結末に納得できなかった」という話をすると、友人はこんな感じの話をしてくれました。
ジョンの結末は、原始的で自罰的な、宗教の最も厳しい戒律を実践するという展開。
つまり、それも作品全体と同じようにとても極端なやり方であり、だからこそ「そこまでする?」という宗教や生き方への皮肉になる。
そう言われると、私はあの結末に対して自分なりの気持ちの整理をつけられる気がしました。
あの結末は、作品全体に敷かれたテーマから外れてはいなかったのです。
他人の価値観の助けを借りて、作品をより深く理解する
本を読んでいると、内省的な気持ちになります。
私は登場人物に共感して疲れすぎてしまうほどだから、客観的視点まで自分を持っていくことが難しい。
最近ようやく、「入り込むと疲れるから、ちゃんと自分と登場人物の境界線を意識しよう」と思えるようになったばかりです。


だからこそ、分からないことは知り合い・友人に「これってどういうことだと思う?」と聞いて、新しい視点を知るのがとても楽しいし、発見の連続。
そして、共通の本の話題があり、考えを話し合えることは、とっても楽しくて幸せだと思います。
Thank you for your reading!
I wish you all the best!
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