こんにちは。皇月ノエルです。
先日も記事で取り上げた文芸書『サード・キッチン』について、さらに思ったことなどあるので追記したいと思いました。
個人的な感想についてまとめた記事はコチラ↓

拙い会話と言語の壁
物語の中には、多種多様な会話の場面が登場していました。
列に並びながらの雑談、講義後のフォローアップでの問題解説、お互いの本音を吐き出す瞬間――。
舞台が日本で、登場人物が双方ともに日本語話者ならば、これらの場面は何気ないものになったかもしれません。
しかし、『サード・キッチン』で繰り広げられる会話には、別の壁が立ちはだかっています。
会話の9割は英語で行われているということです。
主人公の「私」は日本からの留学生で、舞台はアメリカ。
「私」はある程度の英語は話せますが、方言や訛りの混ざった英語を聞き取ることに苦労しています。
そのせいで気軽な雑談にも集中力を必要とするようです。
「私」にとって、気軽な雑談は気軽ではなかったのです。
相手の話を聞きとり、ノリの良い相槌を打つ。
できれば聞いているみんなに笑いを提供したい。
実は雑談って難しいもので、考えようとすれば気をつけるべき観点がたくさんあります。
繊細さんであれば、なおさらそうなるでしょう。
本の中で日本語と英語という壁を感じたからこそ、その大変さが改めて浮き彫りになったように思いました。
少ない言葉だけで伝わるものとは
でも、それでも「伝わる」ものがあることは、もうひとつの発見。
文法が間違っていても、単語の羅列が拙くても、話を聞いてくれる人は聞いてくれるし、共感もしてくれる。
では、何が伝わっているのでしょう?
何が伝わることによって、「これは相手の思いが乗った、大切な言葉だ」と認識できるのでしょう?
私は「思い」だと感じました。
言葉は流ちょうであるに越したことはない、とも思います。
語彙が豊かな方が的確な表現が見つかるし、どの言葉にも、微妙なニュアンスがあるはずです。
同時に、いくら語彙が多くても、難しい言葉ばかり使う人を「とっつきにくい」と感じる人もいるでしょう。
語彙が豊かなことは確かなメリットですが、良いことばかりではありません。
言葉が少ない(使える単語が少ない、まだその言葉をあまり知らない)ことにも、同じようにメリットとデメリットがあるのではないでしょうか。
赤ちゃんが言葉を話し始めた時、それがたったひとつの単語だとしても、周りの大人は貴重に思います。
初めて話した言葉は大切に記憶されますし、話し始めた赤ちゃんにとっても、何か伝えたいことがあったからこそ、言葉を口に出したはずです。
発される言葉には、何らかの思いが乗っているのです。
留学生としての「私」にとっても、それは同じことだったのではないでしょうか。
リスニングに自信は持てないし、流ちょうでもないけれど。
そこに聞いてくれる人、聞こうとしてくれる人がいて、分かり合いたいと思った時、強い思いが言葉に乗る。
だからこそ、聞こうとしてくれる人は正面から向き合って、きちんと聞こうとするのです。
逆に「私」は、物語序盤の雑談では、ネイティブの友人2人に完全においていかれています。
そこには、テンポについていけないほどのスピード感以上に、「会話に加わりたい」という熱意が足りなかったのかもしれない……と思っています。
「私」が人に無関心なわけではなく、「もっと話したい」「この人と分かり合いたい」と思える人に会った時、「私」は積極的に言葉を発し始めました。
心から、その人と仲良くなりたかったからです。
雑談は「雑」な会話と書き、日常生活のいろいろな場面で行われています。
雑談、他愛のない話の積み重ねが、誰かと誰かの親密度を上げる助けにもなります。
けれど会話の数が増えるほど、内容が薄くなるようにも感じてしまうのです。
何気ない会話ができるのは嬉しいこと。
話が途切れないのは幸せなこと。
同時に、「心から伝えたいことを、思いをしっかり乗せて伝える」こともまた、大切なことではないでしょうか。
言葉の量ではなくて、そこに思いが乗っているかどうか。
子どもの「すき」が本物であることが、少ない言葉からでも大人に伝わるように。
まとまらない文章ですが、今日はこのへんで。
Thank you for your reading!
I wish you all the best!
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