マーガレット・アトウッド著「侍女の物語」(早川書房)を読みました。
これまでいくつかのディストピア小説を読んできましたが、これまでのものとは一線を画す、新鮮で面白い作品。
(もちろん、名作と言われる作品のどれもが新鮮に感じられることは言うまでもありません)
これまでに読んだ作品と根本的に違うのは、世界観の語られ方です。
数少ないかもしれませんが、これまで私が読んだものと比較してみたいと思います。
異様な世界観をどう伝えるか?
虐殺器官 (伊藤計劃著)
主人公のクラヴィスは特殊部隊に所属しており、世界がどのように移り変わっていったかについて敏感。もちろん、知識もありました。
読者は彼の説明によって、読者が生きる「現在」から物語世界の「近未来」まで、設定の線を追うことができたわけです。
虐殺器官については、感想を別の記事にまとめています。
気になった方は併せてどうぞ↓

華氏451度 (レイ・ブラッドベリ著)
世界観の説明方法について、「虐殺器官」と似たところもあります。
本が禁止された世界で、主人公のモンターグはFire Man――本を焼く仕事をしているのです。
Fire Manとは、もともと消防士を表す名前。
職務内容の変化やモンターグの目から見た世界を追うことで、世界の移り変わりや現代との変化に思いを馳せることができます。
すばらしい新世界 (オルダス・ハクスリー)
対する「すばらしい新世界」では、少し違った観点から世界観が語られていたように思います。
視点のメインは「孵化条件付けセンター」にありながら、施設内で視点主となる人物、そしてメインの話し手が次々に変わっていくのです。
この特徴的な進行によて、読者は「瓶から生まれる」世界の流れを把握することができるようになっています。
一方、「侍女の物語」
ところが「侍女の物語」は、世界観の全容が、最後まで理解できません。
主人公のオブフレッド (これさえ本当の名前ではない) の主観で物語が進行し、彼女は一般人だからです。
彼女の目を通して、変革のきっかけとなった事件や変化、自らの体験が順序もばらばらに語られるので、読者は時系列を整理・推測しながら読み進める必要があります。
この、読者に思考を必要とさせる手法は「本のことが頭から離れなくなる」という意味で、作品に人を惹きつけることに効果を挙げているのではないでしょうか。
世界観の全体像については、巻末で有力な仮説を手に入れることができます。
ここまできても、まだ「仮説」としか言えないのですが。
巻末に「『侍女の物語』の歴史的背景に関する注釈」という形を取って、シンポジウムの記録が掲載されています。
この (架空の) シンポジウムの中で初めて、物語の舞台となった「ギレアデ」という国について、外部の目線から説明されているのです。
とはいえ、ここに書かれている言葉も有力ではありながら、絶対ではありません。
なぜならシンポジウムの年号は2195年。
オブフレッドの生きたであろう時代から、ずっと後のことだからです。
話の中ではオブフレッドの「司令官」の実在さえ仮説の域を出ず、彼女自身の身に起こった変化も、推測を交えながら考察されるのみです。
しかしこの巻末の記録があることで、読み通してきた断片的な思い出に納得できる流れを作ることができます。
ある程度、「世界観を理解できたな」と自分に言い聞かせることができるのです。
同時に謎は残り、不思議な余韻として心に残ることになります。
思ったこと:女性は出産の道具か?
人間はひとりで子どもを産むことができません。
世界に男性しかいなくても、女性しかいなくても不可能です。
しかしギレアデでは、子どもができるか、その子が五体満足で健康かどうかは、女性のみの責任とされています。
あの国には「種なし」の男性はいないという洗脳が施されているようです。
女性は痴漢や他の性的被害を恐れることなく、「安全」に暮らせるようになったといいます。
代わりに自分の口座を持てず、働くことができず、必ず男性に庇護され生きていかなければなりません。
さもなければ「コロニー」で汚染物質に囲まれて生きなければなりません。
ここには不自由な安全と、一種の偏った見方が示されていると感じました。
つまり、女性は子どもを産めることにのみ価値がある、という見方です。
主人公のオブフレッドは、子どもを産むためにあちこちの家に派遣される「侍女」のひとり。
健康のために酒もタバコも禁止され、禁欲的な生活を送っています。
もちろん、飲酒・喫煙・暴食などの行き過ぎた行動は、度を過ぎれば不健康に繋がります。
でもここで問題なのは、飲酒・喫煙を禁止する理由です。
「飲み過ぎると危ないから」ではない。
「健康な子どもを産めなくなるから」です。
ギレアデの女性たちは「子どもを産めるか」「生殖能力がないか」によって差のある扱いを受けます。
日本でも「女の子に暴力を振るってはだめよ。子どもができなくなるかもしれないから」と子どもを叱ることがあります。
私は、あれが嫌いです。
じゃあ、子どもを産まない選択をしたら蹴られ、叩かれても良いのか?
身の安全が法律によって保証されているから叩かれない。
そんな単純で当たり前なはずの理由づけはできないのか?
あるいは、男の子同士なら殴り合っても良いのか?
あらゆる矛盾や、一種の気持ち悪さが含まれた言葉、制度だと思います。
思ったこと:失われる自由
私にとって印象的な場面があります。
オブフレッドの回想の中で、口座が凍結されてしまうシーンです。
突然、仕事をクビになる。
自分のお金だったはずのものが、夫の口座に入ってしまう。
妻が夫の所有物になる。
彼女の夫ルークは、決して支配的な人ではなかったようです。
それでもオブフレッドは「所有物にされてしまった」と感じている。
妙にリアルな話だと思ってしまいました。
ちょうど今が2020年で、新型コロナが流行っていて、日本の全国民に10万円の給付金が支給されているところだからでしょう。
給付金は世帯主 (もしかしたら、大多数が男性) の口座に、一家のぶんがまとめて振り込まれます。
政府は、ただ手続きを簡略化するためだったかもしれません。
しかし世帯主ひとりの口座に全員分の給付金が入ることで、円満な夫婦の間にも一種の上下関係が生まれてしまいます。
つまり夫が「あげる」と許可しなければ、妻や子供たちは自分の10万円がもらえないかもしれないのです。
独善的な人であれば、黙って使い込んでしまうかもしれません。
あるいは、餌みたいにちらつかせて、言うことをきかせる手段も取るかも。
とにかく「女性の活躍推進」とは真逆。
女性の自立の出鼻をくじくやり方に感じられます。
オブフレッドが自由に使えるはずだった口座がなくなってしまったこと。
働くことを禁じられ、社会的に夫の所有物になってしまったこと。
それが最近の話題と重なって、リアルさを増すのです。
女性がしんどいと、男性もしんどい
作中に、印象的な性交渉のシーンが2つ登場します。
1つ目は「儀式」の日。
2つ目はニックとの逢瀬です。
儀式での性交を、オブフレッドは「ファ ック」と表現します。
対して2つ目では「セックス」。
ギレアデでは女性の気持ちよさやオーガズムは重要視されていない、むしろ感じてはいけないもののように扱われている印象を受けます。
大人のための性教育や性愛が関心を集める現代とは、まったく逆の考え方です。
これがキリスト教原理主義者にとっては「あるべき形」のよう。
しかし注目すべきは、司令官の反応です。
司令官はオブフレッドを禁じられた遊びに誘い、彼女に「真剣なキス」を求め、クラブに連れていき……。
彼の行動からは、現状への不満めいたものが読み取れるのです。
もしも満足していれば、日常に変化をつけようとは思わないのではないでしょうか。
「儀式」は子どもを授かるための行いで、快楽を求めるものではない。
だからオブフレッドは「ファ ック」と呼ぶし、司令官はそこから抜け出した繋がりを持とうとする。
司令官はとても重要な地位にいたと思われ、ギレアデ世界のルールを定めたとも言われています。
そんな彼自身が、自らの決めたルールの隙間を縫って別のことをしようとしていたのです。
これは司令官も生きづらさを抱えていたことの表れではないでしょうか。
自立を奪われた女性たちは苦しんでいました。
けれど、苦しんでいたのはきっと男性も同じ。
ある意味、男性と女性は両極で、運命共同体のようなものかもしれません。
片方を完全に消し去ることはできないし、片方を抑圧することもできません。
片方を抑圧したつもりが、本当は全員を抑圧しているのですから。
これはひとつの歪みです。
過去から持ち越してきた歪みが、今均衡を取り戻そうとしています。
伸びたゴムが元に戻ろうとする力のようなものです。
限界まで伸びたゴムは元に戻ろうとして、反対側に飛んで行く。
押さえつけようとしていた力より押し返す力が勝って、少しずつ影響が表れていく。
その「影響」こそオブフレッドの体験であり、現代に起きていることかもしれません。
Thank you for your reading!
I wish you all the best!
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