子どもの頃、先生とか大人の対応をどこか「冷めた目」で見ていた節がある。
例えばクラスメイトとケンカした時とか、先生は双方の話を聞いたうえで対処する。
片方を謝らせるとか、互いが納得できるところを模索するとか。
休憩時間が丸々生徒指導に消えることさえある。
とんでもなくエネルギーを使うお仕事である。残業代も出ないし。
話を戻そう。
双方の話を聞いた後、先生は問題の原因を掘り下げて、自分たちで原因に気づかせるような質問を投げかけてくることが多かった。
手法自体は至極まっとうだと思う。
けれど、当時も今も変わらない印象がある。
どの質問にも必ず「先生が期待する答え」があって、意図が透けて見えるのだ。
「私が悪かったですって言わそうとしてるな。謝らせられるのかぁ」
と感じて、意固地になっていたような気がする。
けれども、相手に何かを伝えようとしたからこそ口論になったのであって、当時のつたないやり方では、その「何か」が上手く表現できなかったのである。
……と、いう冷静な分析が当時から頭の隅にありつつも、それを上手く先生に言う語彙も持ち合わせてはいなかった。
結局、小さな誤解やしこりが残ったまま、「ごめんなさい」に漕ぎつけられそうになるわけである。
振り返れば、確かに私に非がある口論の記憶もある。今の語彙さえあれば、もっと円満に済んだであろう。
当時から人との関わり方を知らなかったのだ。
でもそれは話の本題ではない。
私がもやもやを感じているのは、その「無言の意図」みたいなものに対してだ。
心の中には素直で「先生や大人の言うことが正しいのではないか」と思う自分もまた存在するので、
「謝らなきゃいけないのはどっちだと思う?(あなただよ)」みたいな問いかけをされた時に、素直に罪悪感が沸き起こってきたりもした。
そんな自分が嫌いだった。
まるで操られているようだと思った。
正しい感じ方とは何なのか、察して覚えてね、と言われているような気がした。
そして、素直にそれを受け容れて、自分を矯正しようとしているようなのが嫌だった。
とはいえ、それを表明して事態をややこしくするのもまた、説教が長引きそうで面倒臭い。
それで心の内では言葉にあてはめられない苛立ちめいたものを感じながらも、なけなしの罪悪感にすがりついて相手に謝るのである。
繰り返しているうちに、それが当たり前になってしまった。
大人の話は最後まで聞き、期待された返事を汲み取ってその通りに答える。
それが「良さげなやり方」に見えていたからだ。
そろそろ、それが間違っていたことに気づき始めた。
そして実行できるようになってきた。
「大人」って、年齢じゃなくて人間性だ。
人間性がどれだけ成長しているかの度合いだと思う。
自分より年上=大人とはき違えると、人生の貴重な時間を無駄にすることになる。
誰の話を聞くか、自分で見極めること。
気が合わないと思ったら、無理する必要なんてなかった、距離を取って良いこと。
世の中、全員と仲良くするなんて不可能であること。
ただし、個性豊かな人類と共存が可能であること。
最近、分かってきたような気がする。
コメント