書評の違和と客観

音楽でも文学でも、人の書いた書評を見ると
「作者って、本当にそこまで考えてこの作品を書いたのかな」
と疑問に思うことが昔から多かった。

ようやく気づいたけど、書評はただ1つの正しい見方というわけではなく、あくまでも誰かから見た作品の一視点に過ぎなかった。

太宰治の「人間失格」しかり、QUEENの「Bohemian Rhapsody」しかり、作品には作者(作詞者)の哲学や考え方が投影されるものだと思う。

それを直接的にやるか、登場人物に代弁させるか。
まっすぐな言葉でぶつけるのか、それとなくにおわせるのか。

いろいろな表現の仕方があると思う。

作者の価値観の投影が色濃い時、作者の哲学に深く触れる作品の時、
そこには作者の「表現の仕方」が強く強く現れる。

自分がなにを、どう感じているのか。

それをどんな言葉で表現するのか。

同時に、大きな「壁」に突き当たる。主観性の壁。

自分が悩んでいること、深刻に考えていることほど、それをどんな言葉で表現したら良いのか分からない。

私は「Bohemain Rhapsody」に関して、
「男らしくない男(バイセクシュアル)な自分でごめんね」
という家族、あるいは身近な人たちへの謝罪が、

“I sometime wish I’d never been born at all”

の歌詞に込められていると思っている。

「生まれてこなければよかったくらいなのに」というのはフレディの正直な気持ちで、これがフレディの表現技法の限界。最高点。主観性。

でもフレディを完璧に理解している人は彼以外の他にいないので、これが聴衆の耳に入ると大いに解釈が分かれるところとなる。

もっと客観的な見方をして言葉にするとすれば
「こんな僕でごめんね」
かもしれなくて、そう言うと「そうそう、そう言うことが言いたかったんだよ」と納得してもらえるかもしれないけど、

それはフレディ自身のインスピレーションには絶対に湧いてこないと思うのだ。

フレディは「生まれてこなければよかったのに」という思いだけを強く感じていて、それを他の言葉で言い換えるとすればどんな言い回しになるのか、思いつかなかった。

そこに主観性の面白さがあって、書評や評価・分析の意見が分かれるところとなってくる。

太宰さんの「人間失格」だって同じな気がしている。

私は巻末の書評を読んで、
「この人の考え方は私と違うな」と思った。
私が人間失格を読んで感じたことと、書評を書いておられる人の感じ方は違う。

その違いがどこから生まれるのか。

読者がこれまで歩んできた人生とその哲学。さらにはそこに、作者の主観的な表現の壁が絡み合う。

もしかしてそれが、文学の面白いところ?
……かどうかは、ちょっと分からないけれど。

唯一の正しい答えが、きっと作者にすら分からないなんて、考えれば考えるほど浪漫があると思われる。

太宰さんの小説は、日本語の勉強をしようと思って読み始めたのだが、思いがけず書評に対する苦手意識も払しょくできたのでとても良かった。

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