子どもの頃、学校の先生というものは完璧な生き物だと思っていた。
今思えば、学校というのはそう思わせるように作られた空間なように感じる。
でも、今の結論は真逆だ。
先生は完璧じゃない。
その言葉を、私はポジティブな意味で使っている。
高校の頃、進学校にいながら「大学に行かない」という選択肢を取った。
多角的な視野を得た後に自分の納得がいく結論を出そうとして、いろいろな先生に相談に行った。
……今思えば、自分の決断に自信がなかったから、
誰でもいい。
誰かたった一人から「良いんじゃない」という一言を言われたかったんだと知っている。
その通りに言う先生は一人もいなかった。
代わりに大多数の先生が最終的な結論として言ったのは、
「大学に行った方が良いよ」
図書室の本には、「大学に行かなくても生きていける」
「それでも楽しい人生が送れるし、自分がやりたいことをやっている今がある」
と書いてある本もあった。
この違いはなんだろう。
……あ、そうか。
先生たちは、みんな「大卒」なんだ。
教員免許を取るためには、大学、またはそれに類する学校に行かないといけない。
高卒の教員っていない。
人間は他者にアドバイスをするとき、多かれ少なかれ自分の経験をもとにする。自分が経験して、真に納得したメッセージしか、響く言葉で相手に伝えることができない。
そして先生たちのほとんどは、高校から大学に進んで教師になっている。
つまりは「大学に行かない」という生き方を知らないんだ。
(一部、一般企業に入ったけどやっぱり先生になりたいと言って教員に転職した進路の先生がいました。S先生の話は視野が広くてとても面白いです)
私の両親ともに教員なので、私の周りには本当に大卒の人しかいない。
両親も「大学に行け」と最初は言っていた。
でもこの「先生たちはみんな大卒だ」という事実に気づいてから、私の視野がとてもとても変わったことはとても重大な転換点だったと思う。
先生が絶対的に正しいと思っていた(思いこまされていた)私は、自分の選択はどこかで間違っているんじゃないか、でも大学には行きたくないんだよなぁって、矛盾にも似た思いを抱えていた。
でも、「先生は完璧じゃない」と気づいたら、その矛盾が解決してしまった。
世界にはいろんな生き方があるし、進学が絶対の正解じゃない。
先生たちが完璧じゃない、みんな良い意味で人間なんだと思った時、突然に魔法から覚めたほどの衝撃を受けた。
人間だから、失敗だってするし、
人間だから、忘れ物するし、
人間だから、忙しさでいっぱいいっぱいになることだってあるし、
人間だから、給食に嫌いなメニューが出るし
(でも生徒の前では我慢して食べなくちゃいけないかもしれないし)、
学校に行きたくない日があるかもしれない。
授業って、喫茶店の店員さんやガソリンスタンドの人と同じくらい、れっきとした仕事でやっているわけで。
お昼食べる時間を削って、生徒の相談に乗ってくれたり、
分身できないのに、たった1つの体でめちゃめちゃにいろんなことをこなしてたり。
「完璧なら、できて当たり前」と傲慢に、盲目に考えていたすべてのことが、
急にものすごいことをしている、せざるを得ない人たち
という尊敬に変わった。
「先生は敬うべき」という押し付けみたいなのじゃなくて、本当に、心から「すごいな」と初めて思った。
急に「忙しくて大変ですね」と先生たちの目の回るような忙しさを自分に身近な、人間の身に起こりうることとして感じた。
先生に完璧なアドバイスなんて求められないし、きっとそれで良いんだと思う。
そして、悩んでいる人たちはきっとそれを知ると良い。
先生に従うことは、狭い学校を出るまでの護身術でしかなくて。
時にはそれも、自分で打ち破っていかなくちゃいけない時もあって。
「先生は完璧じゃない」と知らなければ、きっといつまでも頼り切り。
本当のありがたさなんて分からないままだったんじゃないかと思う。
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