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皇月ノエルはこんな人

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「第17回星の砂賞」審査員奨励賞受賞作「紙の森」
――悲しみから、朝が芽生える。「ハナビシソウ」
――知らなかった。先祖が僕を見守っているなんて。「もがり」
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曲調の変化が表すものとは?【楽曲『ボヘミアン・ラプソディ』を考察!】

QUEEN
Image by RitaE from Pixabay

こんにちは。皇月ノエルです。

今日は、QUEENの名曲「ボヘミアンラプソディ」を考察してみます。

収録アルバム『オペラ座の夜』について

『ボヘミアン・ラプソディ』が収録されているアルバム『オペラ座の夜』。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』の中で制作されているアルバムでもあります。

劇中で、収録曲「I’m in Love with My Car」と「Sweet Lady」の歌詞をからかい合うシーンがあるので、映画と併せて聴くとより楽しさが増すアルバムです。

曲調の変化は心情の移り変わり?

そんな楽曲『ボヘミアン・ラプソディ』の最大の特徴といえるのが、曲調の変化ではないでしょうか。

アカペラから始まったかと思えばゆるやかなピアノ、オペラめいたコーラス、ギターとドラムの効いたロック調へ……と、約6分間の中に何度も曲の雰囲気が変化します。

あれは一体、何を表現しているのでしょう?

 

私は「思い悩むフレディの心情の変化」だと捉えています。

「僕」が殺した人間の正体は?

『ボヘミアン・ラプソディ』の1番は、衝撃的な歌詞から始まります。

Mama, just killed a man

(母さん、僕は人を殺してしまった)

では、一体誰を殺したのか?

ずばり、フレディの中の同性愛的な部分です。

『ボヘミアン・ラプソディ』とは、自分の同性愛的な側面に気づき、葛藤するフレディ自身の内観の曲ではないでしょうか。

 

フレディはメアリーという異性の恋人がいながらも、男性に魅かれる自分も自覚していたと思われます。

劇中にもそれを示唆する描写がありますね。

しかし、当時はまだ同性愛への理解は今以上に浸透していませんでした。

同性愛は「異常」であり、受け入れがたいものだったのです。

だからこそフレディは葛藤し、同性愛的な部分を、自分の中で「殺す」「殺したい」「なかったことにしたい」と思っているのではないでしょうか。

大切な人を思い悩ませたくない

しかし一方で、「何を好きで、何が嫌いか」という好みは、個人を特徴づける要因のひとつでもあります。

フレディ・マーキュリーから同性愛的な感性を取り去れば、それはフレディ・マーキュリーとは違う人間になってしまうのではないか。

フレディはそう考えたのかもしれません。

歌詞の一節

Didn’t mean to make you cry –

If I’m not back again this time tommorow –

(君を泣かせたいわけじゃないんだ

もし僕が明日の今頃、戻らなかったとしても)

は、「殺人によって逮捕されてしまった」と読み取れる一方で、

「同性愛的な部分を抑圧/抹殺したことで変わり果てた自分の内面」のことをも表現しているのではないでしょうか?

物理的には家に帰るかもしれないけれど、「僕」の内面はすっかり変わっているという暗示です。

一度変化してしまえば、過去とまったく同じ自分に戻ることは難しいもの。

変化したのが、自分の根幹をなす「好き/嫌い」の価値観ならなおさらです。

 

歌詞では「mama」と歌われる、フレディが悲しませたくない相手は、フレディにとって大切な人であると同時に、葛藤の対象でもあると考えられます。

 

大切な人だから、自分のありのままを知ってほしい、認めてほしい。

一方で、同性愛を公表したら悲しませてしまいそうだから、絶対に知られたくない。

 

そんな相反する気持ちが、フレディを苦しめていたのではないでしょうか。

“mama”とは誰のこと?

さて、歌詞でフレディが語りかける「mama」とは誰のことでしょう?

これはひとつに規定できるものではなく、複数のニュアンスを含んだ言葉だと感じています。

ニュアンス1 自分の母親

これは文字通り、フレディの実母、ジャー・バルサラのことです。

映画やドキュメンタリー動画を観る限り、フレディと母親の間には愛情の溢れる関係性が築かれていた印象。

母親を悲しませたくないという気持ちがあった可能性は高いのではないかと思います。

ニュアンス2 女神/神性

もうひとつ考えたのは、「mama」が特定の個人に対してではなく、「Oh, my god」や「my load」のような、神性めいた存在への呼びかけです。

あえて「mama」とすることで、母性や女神性を強調したかったのではないでしょうか。

このニュアンスで歌詞を捉えると、「自分の一面を殺してしまった」以外に、「どうして僕をこんな(同性愛的な側面を持つように)創造したの」というような、存在の根本から問いかける意味が付加されます。

オペラパートは自責の感情

緩やかなピアノから始まった曲の中で、フレディは自分の罪――同性愛を抱く罪、そんな自分を恥じずにはいられない罪について思い悩んできました。

オペラパートにさしかかると、その悩みは「叱責」という新たな特性を帯びます。

激しい曲調は、そのまま激しい口調で自分を責める様子を象徴しているのです。

歌詞の中にも、

Beelzebub has a devil put aside for me,

(ベルゼブブが僕に悪魔を差し向ける)

という一節があり、自分は悪魔に罰せられるのではないか、それほどの罪を犯したのではないかという強迫的な感情が読み取れます。

激しく思い悩む時も、一歩離れて見る時も

そのまま自暴自棄的にロック調のパートに突入しますが、曲は最後に再び緩やかなピアノに戻ってきます。

この曲調の変化も、そのまま心情の移り変わりを表していると思います。

つまり、自責で熱くなり、自暴自棄的になる時もありながら……冷める時は、気持ちがスッと冷めるということ。

歌詞も

Nothing really matters

Any one can see,

(本当に重要なことは何もないんだ

みんなが分かっているように)

となっています。

 

気持ちが冷めたことで、自分の激情を冷静に捉えられるようになったのでしょうか。

自責の念に翻弄されている時は見えなかったけれど、一歩離れて見れば、自分の葛藤がそれほど重要には思えないこともある。

結局、自分のことをいちばん気にしているのは自分だけで、周りの他人はそこまで自分を気にかけてはいないからです。

フレディがゲイだろうが、同性愛者だろうが、異性愛者だろうが……。フレディ以上に気にしている人はいないのではないか。

何が真実だろうと、世界はフレディが葛藤する前も後も、変わらず回っていくからです。

Anyway the wind blows…

(どちらにしろ風は吹くんだから)

 

『ボヘミアン・ラプソディ』は誰の心にもある

自分の心の中に「問題」を見つけ、それを恥じ、殺してしまう。

殺してしまったことに、自分が変わり果ててしまうかもしれないことに恐れをなす。

そもそも葛藤し、迷ってばかりの自分を責める。

達観して、「そこまで大した問題じゃないかもしれない」と落ち着く。

 

そんな一連の感情の動きが、曲調の変化を使って巧みに表現されているのが、『ボヘミアン・ラプソディ』という曲なのかもしれません。

 

重要なのは、フレディの心情を吐露したようなこの曲が世界に評価され続けているということ。

きっとこの曲に根付く心情が、多くの人の共感を集めたからではないでしょうか。

 

誰でも何かに葛藤し、迷い、自分を責めて、でも冷静に考えたら……という感情の流れを持っている。

ある意味、それを繰り返すことこそが生きる過程なのかもしれません。

 

フレディは自分の感情をつぶさに描くことで、多くの人の根源的な共感を呼んだのでしょう。

 

 

I wish you all the best!

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