なぜ妊活期間があるのか?

子供を「育てる」と思ったら大間違い。と私は思っている。
子どもの「世話をする」というなら遠くないかもしれない。

社会の中で生きるためのふるまいを、子どもは知らないかもしれない。
それは身につけると便利な知識であるし、それを体得することが「大人になる」と表されることもある。

ただし精神的な面に目を向けると、子どもは大人から学ぶばかりではない。子どもの自由な精神から、大人が学びや気づきを得る場合がとても多くある。

時には、自分の知りたくなかった面や、今まで蓋をしてきた一面を、自分の子どもによって明らかにされることさえ。

それは不快な体験であろうし、感情をあらわにして怒ることも、ため込んで自分の体を壊す場合もあるかもしれない。感情の爆発はその場ですぐ起こるとは限らない。

そして重要なのは、子どもは気づきを促す手段の一つに過ぎないという事実である。

自分の様々な面を見つけ、「これも自分だ」と認めていく心の作業は、自分と向きあうことで完了することができる。
自分ひとりだけでは恐ろしくてできないと思う時は、信頼する人や、人の悩みに寄り添う人々の助けを借りることもできる。

子供が気づきの機会を与えてくれるのは、以上のどの手段も使わなかった時。
今までにあった気づく瞬間、機会を逃してきたから、また新たな見え方として、子どもを通して見せられている。

それは子どもが悪いわけではなく、常に「私たち」が気づく瞬間が、いろいろなところから、気づかれるまで何度も心のドアを叩き続けているに過ぎない。
それは私たちを苦しめたいからではなく、新たな視点を手に入れて、より身軽に生きられる可能性があるからだ。

願いが成就しない、ただ「待つ」だけのような時間の中で、私たちは自分の心と向き合う機会を与えられている。
自分が愛情をかける存在であるだけに、自分の暗さを子どもを通して見せられるのは、とてもこたえる体験になりうる。
そんな最後の手段めいた瞬間に到達する前に、私たちには気づきの機会が与えられている。

精神的な気づきはらせん状に昇っていくと言われるように、似たようなテーマが繰り返し訪れることもあるけれど。
よく考えれば、まったく同じことで、同じように悩んでいるわけではないことに気づける。前に進んでいる。気づきはなくならないからだ。

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